戻る道(もどるみち)知られない歴史!昔の生活の厳しさを物語る細道を歩く

戻る道(もどるみち)

戻る道(もどるみち)

沖縄本島最北端の辺戸岬から車で数分。
雄大な崖景観で知られる茅打バンタへ向かう途中に、ひっそりと佇む歴史スポットがあります。
その名も 「戻る道(もどるみち)」。

観光地として大きく紹介されることは少ないものの、ここには昔の人々の生活の苦労と知恵が刻まれています。
現在は車で通れるほど整備されていますが、かつては人がすれ違うことすら難しいほどの細道でした。

戻る道とは?名前の由来に隠された生活のリアル

戻る道があるのは、沖縄県国頭村宜名真(ぎなま)。
昔、この地域の人々は崖の上に広がる耕作地「辺戸上原(へどうえばる)」へ向かうため、この細い岩道を通るしかありませんでした。

しかし当時の道幅は、人がひとり通れる程度の“岩の裂け目”のような細さ。
向こうから人が来れば、どちらかが引き返すしかない。

そんな状況から、この道は自然と 「戻る道」 と呼ばれるようになったと言われています。
名前だけで、当時の生活の厳しさが伝わってくる場所です。

戻る道(もどるみち)の風景

戻る道(もどるみち)の風景

1913年、住民総出で岩を削った大工事

戻る道の歴史を語るうえで欠かせないのが、1913年に行われた道の拡張工事です。
宜名真集落の人々は、耕作地へ向かうための道があまりに狭く、生活に大きな支障が出ていました。
そこで中心となったのが、當山正堅(とうやま まさかた)先生。

彼の呼びかけにより、住民総出で岩を削り、道幅を広げる大工事が行われました。
その結果、牛や馬も通れるほどの道となり、耕地の開拓が一気に進んだと記録されています。
現在も近くに記念碑が残り、地域の歴史を静かに伝えています。

地質的にも珍しいスポット

戻る道周辺は、地質好きにはたまらない場所でもあります。

・黒っぽい 泥岩(どろがん)
・白っぽい 石灰岩(せっかいがん)

この2つの異なる地質が接する境界に位置しており、岩肌の色や模様が変化するのが特徴です。
地層が斜めに折れ曲がった「褶曲(しゅうきょく)」も観察でき、自然が作り出した造形美を間近で楽しめます。

現在の戻る道:静けさの中に残る歴史の気配

現代の戻る道は、車が通れるほどの幅に整備されています。
しかし両側に迫る岩壁や、道の曲がり具合には、昔の面影がしっかり残っています。

・茅打バンタの駐車場から徒歩数分
・観光客は少なく、静かに散策できる
・案内板があり、歴史を学びながら歩ける

茅打バンタの絶景とセットで訪れる人が多いですが、戻る道そのものも十分に見応えがあります。

アクセスと駐車場

・許田ICから国道58号を北上し、辺戸岬方面へ約1時間40分
・茅打バンタの駐車場(無料)を利用するのが一般的
・駐車スペースは約20台ほどと広めで安心
駐車場から戻る道までは徒歩で向かえるため、気軽に立ち寄れます。

昔の人々の生活を感じる、静かな歴史スポット

戻る道は、ただの細道ではありません。
「生活のために岩を削り、道を広げた」そんな昔の人々の努力と知恵が刻まれた場所です。

茅打バンタの絶景だけでなく、こうした歴史スポットを巡ることで沖縄北部の魅力をより深く味わうことができます。
辺戸岬や大石林山と合わせて、ぜひ訪れてみてください。

戻る道(もどるみち)案内板

戻る道 Modoru-Michi (Backtracking Path)
宜名真集落(ぎなましゅうらく)の後方から約80mの断崖絶壁(だんがいぜっぺき)を登ると、辺戸上原とよばれた耕地(こうさくち)に適した土地があった。

戻る道(もどるみち)の案内板

戻る道の案内板

宜名真の人々は辺戸上原へいくために岩の裂け目を利用した長さ約100mの狭い道を通っていたが、その道は人が1人通れるだけの道幅しかなく、道の途中で人が出会うとどちらかが道を戻らなければならなかった事から「戻る道」と呼ばれていた。

戻る道(もどるみち)の案内板

戻る道(もどるみち)の案内板

通行困難であるために土地をうまく利用できず、宜名真住民は貧困に苦しみ、年々不就学児童がふえていく状況であった。
1912年、辺戸尋常小学校校長(へどじんじょうしょうがっこう)に就任した当山正堅先生(とうやませいけんせんせい)はそのことを知り、岩を開削し道幅を広げる工事を行う事を呼び掛け、地元住民が総出で行うことになった。

戻る道(もどるみち)の石碑

戻る道の石碑

工事は1913年5月に開始され同年11月に完了した。この工事によって道幅は広がり、牛馬も通れるようになった事から辺戸上原地区の開拓が急速に進められたという。
(※石碑(せきひ)の裏に説明文があります)

Approximately eighty meters ut a precipitous cliff located of the land if the tonen af Girama mere was arable land salted Hedo-Lenaru To reach this anes, the people of Sans had to go along narrow paesage nunning about 100 ms, and passing through a gant celt betek ever the footpath was wide enough for two people to pass each other, so when people tonippo site directions met along the way. e of them had to hacktrack to let the oncoming person through This is why the ruud was called Modoru Miche erally meaning tracktracking path. The difficulty of Transit made it hard for the residents of Ginama to ulize the arable land. As a reout the people suffered in dire poverty, and more and more children were unable to attend school
in 1912. Mr. Seken Toyama, who had just taken a post as the new propal of Hado Primary School learned about this. He called on the residents to widen the road by excavating the surrounding rocks and the entre community joined the project. The construction began in May of 1913 and ended as November of the same year. As the mad was widened after the construction, osen and horsee were able to pass through the route leading to a rapid development of the Hedo-Urbani region

茅打ちバンタ(かやうちばんた)

戻る道から上へ上がっていくと茅打ちバンタ(かやうちばんた)の絶景を望むことができます!

茅打ちバンタ(かやうちばんた)の絶景

茅打ちバンタの断崖絶壁(だんがいぜっぺき)

観光名所 戻る道(もどるみち)
住所 〒905-1422
沖縄県国頭郡国頭村宜名真
営業時間 見学自由
駐車場 有り(茅打ちバンタの駐車場)

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