天仁屋(てにや/てぃんな)

天仁屋は、方言でティンナと呼ばれ、名護市の北東端に位置する。
太平洋に面し、北は東村の有銘と接している。

県道70号線がスーナ(底仁展)の方を通り、北西の山地に水源を発する天仁屋川と有津川(流長6.1km)が流れる。
南側にはバン崎、そして東にティンナザチ(天仁屋崎)がある。

集落は、本集落の他にアッツ(有津)とイーフドー(上太道)がある。本集落は、碁盤目状の土地割の集落を形成している。
有津は、散村形態の集落である。

それぞれ天仁屋と有津に共同売店がある。
昭和27年に天仁屋から底仁屋が分区したが、同33年に合併そして同37年に行政区底仁屋として独立した。

有津には沖縄貝塚時代前期の有津貝塚がある。神アサギの広場の天仁屋遺跡はグスク時代から近世、近代にかけての遺跡。
近世史料には「てきな村」ともみえる。
天仁屋の本集落の他、大道原、スウナ(底仁屋)、前原、有津の五集落がある。

これらは廃藩置県後、首里、那覇の士族が移り住んで成立した。
底仁屋、前原には、はじめハサマ山に住んだ人たちが大正の初期に移ったという。

パン崎には、近世に東海岸を見張る詰所と×季火台がおかれた。
現在の行政区底仁屋は、昭和27年に天仁屋から分立し、同33年に再び合併、さらに同37年に分かれて今日に至っている。

天仁屋小学校は大正g年に分教場として始まり、昭和4年に現在地に校舎を新築した。
北側丘陵地で現在大規模な土地改良事業がすすめられている。花弁の産地としても知られる。
市指定の天然記念物「底仁屋の御神松」がある。

天仁屋の伝統文化

拝所と祭紀

近世の御獄として、「由来記」(1713年)にアフラヤマ徹(神名コバヅカサノ御イベ)が記され、そこは天仁屋村根神の崇べ所であった。
また、神アシアゲがあり、そこの祭記は嘉陽ノロが司った。当時の祭祀には、稲二祭・年浴・柴指・ヲンナイ折目などがあった。
現在、公民館のすぐ前にガジマルやアコウの木が茂った所があり、その北の端に神アサギ、南の端にウタキがある。ウタキの入口には鳥居もある。
また、そのウタキは嘉陽ウイグシクヘのウトゥーシでもあるという。そこから、道をへだてた東にはニガミヤーがある。
拝井泉として、集落の東にウッカガーがある。
現在、神役はニガミとウドゥイガミだけとなったが、戦前はサンナンモーという神人の小使いやニーブガミという男神もいたという。ニガミは比嘉系統から出ている。
現在も続く伝統的な年中行事は、表に見るように、旧1月3日のカーウガン、4月のアブシバレー、5月のウマチー、6月のウマチー、9月の柴指などがある。

芸能

天仁屋の公民館は、すぐ村踊りの舞台になるように造られていて、神アサギに向かう。
現在、天仁屋では3年ごしに村踊りをやるが、その際、天仁屋から分区した底仁屋と合同でやっている。

底・仁屋の分区前は、旧8月9日・11日・13日の3日間やっていたが、今は11日に1日だけやっている。
当日、まず踊りの 衣装を保管しているヒジャーヤーから道ジュネーがスタートする。

公民館前の通りを北に向いジョーグチと呼ばれる所で引き返し公民館に戻る。
戻るとまずガーイーが行なわれ、そして舞台の芸能に入る。

踊りは天仁屋・底仁屋・有津で分け、それぞれの地区で練習を積んで本番に天仁屋の舞台に立った。
天仁屋では長者の大主・稲摺節の他、女踊りなどを分担し、有津は高平良万才や前之浜を得意とした。

今はやってないが、以前は組踊も盛んだった。天仁屋は「伏山敵討」、底仁屋は「八重瀬」、有津は「久志の若按司」を得意とし、それを交互にやっていた。
また、歌劇「真玉橋由来記」や「泊阿嘉」も有名だった。旧盆にはエイサーもやる。現在やっているのは2年程前に三原から習ったもので、底仁屋と合同でやっている。
戦後直までは伝統的なティーモーイ(手舞い)を中心としたエイサーで、各戸を回っていたという。

天仁屋の文化遺産

天仁屋に伝わる伝説

狩人と牛盗人

狩人と牛盗人 (天仁屋の伝説・昔話)
天仁屋の部落がまだなく、そこがうっそうとした森林だった頃、海岸の洞窟を住処にしている3、4人の盗賊がいた。
盗賊たちは近くの村から牛を盗み、村人たちを困らせていた。

ある日、嘉陽の狩人が犬を連れ、狩りをしていたが道に迷っているうちに天仁屋の海岸に出た。
見ると海岸の洞窟で盗賊たちが牛鍋を前にして酒を飲んでいるのが見えた。

村人を困らせている盗賊はこいつらだと思った狩人は、犬をつかって盗賊たちを捕らえた。
その時、狩人は辺りの地形のよさや水利のよさを見て、いい所だと思い、村に帰ってそのことを話した。
それから天仁屋の開墾が始まり、今の部落が始まったという。(久志村誌より)

ユーヒナハナの洞窟

ユーヒナハナの洞窟 (天仁屋の伝説・昔話)
公民館から300m離れた所にユーヒナハナという田があり、そこには直径3m程の穴がある。
そこに、那覇からきたジュリが身を投げたことがあるが、その死体は、遠く天仁屋岬の浜に上がっていたという。(昭和59年民話調査より)

高良大主前

高良大主前(天仁屋の伝説・昔話)
天仁屋門口屋の先祖に高良大主前と呼ばれる大力者がいた。
大主前はウッカ川から、幅二尺・厚さ五寸・長さ五尺余りある数百斤の平石を一人で担いできて、自分の家の前に置き、トゥナミ石(踏み石)にしたそうだ。

また、大主前が与那原に行った時、そこですもうをやっていた。
見ると強そうな力士の前に、みんな出るのを渋っていた。

大主前は人選に回っている人に見つかり、引っ張り出されたが、大主前には帯がなかった。
近くに川竹の束があったので、大主前はその中の一本を抜き、ねじり割って竹縄を作ってそれを帯にした。
それを見た力士たちはびっくりして誰一人出る者はなかったという。(久志村誌より)

出典:わがまちわがむら・名護市の小字

名所 天仁屋(てにや/てぃんな)
住所 〒905-2261
沖縄県名護市

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