浦添市の高台に広がる浦添城跡。その北側の崖中腹に、静かに佇む王陵が「浦添ようどれ」です。
“ようどれ”とは琉球語で「夕凪」「極楽」を意味し、王の魂が安らかに眠る場所としてふさわしい名が付けられています。
ここは、琉球王国初期を築いた英祖王、そして激動の時代を生きた尚寧王が葬られた、国指定史跡の王陵です。
ようどれは、琉球石灰岩を掘り抜いて造られた二つの横穴墓室で構成されています。
向かって右側の西室には英祖王が、左側の東室には尚寧王とその一族が眠るとされ、東室からは尚寧王の石厨子が発見されています。
墓室の前には「一番庭」「二番庭」と呼ばれる広場があり、二つの庭はアーチ状の「なーか御門」でつながっています。
入口となる「暗しん御門」は自然の岩盤を掘削したトンネルで、かつては“あの世へ続く道”として信じられていました。
発掘調査によって、ようどれは13世紀に造営されたことが明らかになっています。
英祖王の時代に築かれ、その後、尚巴志王や尚寧王の時代に大規模な改修が行われました。
墓室内には計10基の石厨子があり、その多くが沖縄県指定有形文化財となっています。
東室には左右一対の石獅子が置かれていましたが沖縄戦で右側が失われ、戦争の爪痕を今に伝えています。
沖縄戦ではようどれも大きな損傷を受けましたが、戦後の修復と2005年の復元によって、現在は往時の姿を取り戻しています。
二番庭付近からは金属工房跡も発見され、王陵周辺で金属製品が作られていた可能性が示されています。
王の眠る場所でありながら、当時の生活や技術を物語る貴重な遺構でもあります。
浦添城跡とセットで訪れると、古琉球の歴史がより立体的に感じられます。
高台からの景色、静かな空気、石灰岩の質感──。
浦添ようどれは、華やかな首里城とはまた違う、琉球の原点に触れられる場所です。
歴史好きはもちろん、沖縄の文化を深く知りたい人にぜひ訪れてほしいスポットです。
浦添ようどれとは(概要)
浦添ようどれは、沖縄県浦添市の浦添城跡北側の崖中腹(標高約115m)に位置する、琉球王国の王陵です。
英祖王(在位1260〜1299)と尚寧王(在位1589〜1620)が葬られているとされ、国指定史跡に登録されています。
「ようどれ」は琉球語で夕凪(ゆうなぎ)=静けさ・極楽を意味し、王の安息の地としてふさわしい名が付けられています。
構造(墓室・庭・門)
浦添ようどれは、琉球石灰岩を人工的に掘削した二つの横穴墓室で構成されています。
・墓室
西室(向かって右):英祖王陵とされる
東室(向かって左):尚寧王と一族の陵墓
→ 東室からは尚寧王の石厨子が発見されています。
・墓庭
一番庭(いちばんなー):墓室前の広場
二番庭(にばんなー):西側に位置
二つの庭は「なーか御門(うじょう)」というアーチ門で接続されている。
・入口
入口は「暗しん御門(くらしんうじょう)」と呼ばれる自然岩盤を掘削したトンネル。
“あの世へ続く道”と信じられ、ニライカナイへ通じる象徴的な構造でした。
石厨子(蔵骨器)と文化財
東西の墓室には計10基の石厨子があり、
・西室の3基
・東室の4基
が沖縄県指定有形文化財となっています。
東室には左右一対の石獅子があったものの、沖縄戦で右側が失われました。
歴史(造営〜改修)
・造営
英祖王が1261年に築いたと伝えられる。
発掘調査では、13世紀造営(1273年が有力)と裏付けられている。
・改修
尚巴志王代(第二期)
尚寧王代(第三期)
の2度にわたり大規模な改修が行われた。
西室の石厨子は、この改修時に木製から石製へ置き換えられたと考えられています。
沖縄戦と復元
沖縄戦で大きな損傷を受け、暗しん御門の岩盤が崩落。
1955年に琉球政府が修復し、2005年に復元が完了しました。
金属工房跡(発掘調査)
二番庭付近からは、
・坩堝(るつぼ)
・金床石
・鉄滓
・釘
飾り金具
などが発見され、金属製品の工房跡とされています。
文化財保護法違反事件(2024年)
2024年10月、スプレーによる落書きが発見され、20代の容疑者2名が逮捕されました。
文化財保護の重要性が改めて注目される出来事となりました。
| 名所 | 浦添ようどれ(うらそえようどれ) |
|---|---|
| 住所 | 〒901-2103 沖縄県浦添市仲間2丁目53 |
| 駐車場 | 無料 |






















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