炎上した首里城正殿
首里城が2019年10月31日に炎上した!
修復してる首里城の写真をみているとショック過ぎて何も言えない!
やっと復元した首里城が一瞬のうちに無くなった!
炎上している首里城をニュースで見るとショックで涙がでた!
首里城に関わった方々には残念ですとお伝えしたい。
時間は掛かるが新しい首里城の復元をしてほしいと思います。
首里城公園(しゅりじょうこうえん)
首里城の正殿(せいでん)は2017年4月~2018年(未定)の間、塗り直し工事を行っています。
その為シートやカバーがかかっていて、メインである正殿(せいでん)の写真を撮りにいったわけですが残念過ぎて何とも言えません・・・。
正殿(せいでん)の写真はリベンジするしかないようです。
今は正面の塗り直しをしていますが、正面が終わると次は左側と右側の修復するみたいです。
なので修復作業が終わるのは、予想ですが早くて来年2018年6月頃かもしれません。
そのほか、無料で一日三回行われる舞の誘いがみれます。
琉球王国時代に首里城で育まれた琉球舞踊。
華やかな衣裳の「四つ竹」、優美な舞の「かせかけ」など、琉球舞踊の魅力を存分に堪能できるイベントです。
首里城内には琉装をまとったスタッフがいますが、なんと首里城の魅力をたっぷりと無料でガイドしてくれます。
下之御庭の系図座・用物座(けいずざ・ようもつざ)を舞台にきらびやかな衣装をまとった優雅(ゆうが)な琉球舞踊を無料で見ることができますよ。
舞の誘い
1日3回、毎週4日(水・金・土・日)と祝日開催(各回30分程度)
※荒天時等には、中止になる場合があります。
実施日時 | 【1回目】11時00分~ 【2回目】14時00分~ 【3回目】16時00分~ |
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下記の日程には 実施いたしません |
平成29年休館日:平成29年7月5日(水)、6日(木)の2日間 「首里城祭」期間中、右記日程:平成29年11月3日(金)~11月5日(日) 「新春の宴」期間中:平成30年1月1日(月・祝)~3日(水) |
守礼門(しゅれいもん)
「守礼(しゅれい)」とは「礼節を守る」という意味で、門に掲げられている扁額(へんがく)には「守礼之邦(しゅれいのくに)」と書かれている。「琉球は礼節を重んずる国である」という意味である。首里城は石垣と城門の多い城であるが、中でもデザイン上バランスがとれ、エレガントな雰囲気のある代表的な門がこの「守礼門」である。中国風の牌楼(ぱいろう)という形式で建立されている。
首里城での多数の城門や建築物には「公式の名称」の他に「別名」が付けられている。それらの呼び名から往時の琉球人の詩的な感覚が読みとれる。守礼門は古くは「首里門(しゅりもん)」ともいわれたが、庶民は愛称として「上の綾門(いいのあやじょう)」と呼んだ。「上の方にある美しい門」という意味である。
1527~55年(第二尚氏4代目尚清王(しょうせいおう)代)にはじめて建立され、1933年(昭和8)に国宝に指定されたが沖縄戦で破壊された。現在の門は1958年(昭和33)に復元されたもので、その後今日まで沖縄を象徴する観光施設として利用されている。2000年の記念紙幣2,000円札の絵柄にもなっている。
園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
国家の安全と繁栄を祈願した石門
琉球石灰岩で造られた建造物で、国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所である。形は門になっているが人が通る門ではなく、いわば神への「礼拝の門」ともいうべき場所である。
門の上部に掛けられている扁額(へんがく)の内容から1519年(尚真王(しょうしんおう)代)に建てられたことが判明している。八重山の竹富島出身の西塘(にしとう)という役人が築造したものと伝えられる。
琉球の石造建造物の代表的なものであり、1933年(昭和8)国宝に指定されたが、沖縄戦で一部破壊され、1957年(昭和32)復元された。現在、国指定重要文化財となっている。また2000年(平成12)には世界遺産へ登録された。
歓会門(かんかいもん)
首里城の城郭(じょうかく)内へ入る第一の正門で、「歓会(かんかい)」とは歓迎するという意味である。往時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられた。
首里城は外郭(外側城郭)と内郭(内側城郭)により二重に囲まれているが、ここは外郭の最初の門で、別名「あまえ御門(あまえうじょう)」ともいう。「あまえ」とは琉球の古語で、「喜ばしいこと」を意味する。
創建は1477~1500年頃(尚真王代)で、沖縄戦で焼失したが、1974年(昭和49)に復元された。門は石のアーチ状の城門の上に木造の櫓(やぐら)が載せてある。このスタイルは後述する久慶門(きゅうけいもん)、継世門(けいせいもん)、等と同じである。
門の両側には「シーサー」という一対の石造の獅子像があるが、これは魔除けの意味で置かれている。
龍樋(りゅうひ)
「龍樋」は、龍の口から湧水が湧き出していることからそのように名付けられた。この水は王宮の飲料水として使われていた。また、中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった「天使館(てんしかん)」という宿舎まで、毎日ここから水を運んだといわれている。
龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもので、約500年前のものである。
瑞泉門(ずいせんもん)
「瑞泉(ずいせん)」とは「立派な、めでたい泉」という意味である。
門の手前右側にある湧水が「龍樋(りゅうひ)」と呼ばれ、それにちなんでこのように名付けられた。ここは第二の門で、別名「ひかわ御門(うじょう)」ともいう。
「樋(ひ)」は川や泉から水を導く長い管、または溝、あるいは屋根の雨水を受けて地上に流す装置(掛け樋)等のことをさす。一方、沖縄で井戸や泉のことをすべて川(カワまたはカー)と表現する。「ひかわ」とは、こうした表現を合わせた言葉で、フィージャーガーとも発音する。
創建は1470年頃で沖縄戦で焼失したが、1992年(平成4)に復元された。門の両脇には一対の石獅子(いしじし)が並んでいる。これも魔除けの意味で置かれている。
瑞泉門は先に見たアーチ状の石門の歓会門とは異なり、双璧の門の上に直接櫓(やぐら)がのっている。このタイプの櫓門(やぐらもん)は日本本土の城門でも見ることができるが、櫓の中央の「瑞泉」という扁額(へんがく)が琉球独特の持ち味を出している。
漏刻門(ろうこくもん)
「漏刻(ろうこく)」とは中国語で「水時計」という意味である。ここは第三の門で、別名「かご居せ御門(うじょう)」ともいう。
当時、身分の高い役人は駕籠(かご)にのって首里城へ登城したが、高官でも国王に敬意を表し、この場所で駕籠から下りたということからそのように呼ばれている。創建は15世紀頃である。
門の上の櫓(やぐら)に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったといわれている。時刻を測定すると係の役人がここで太鼓を叩き、それを聞いた別の役人が東(あがり)のアザナと西(いり)のアザナおよび右掖門(うえきもん)で同時に大鐘(おおがね)を打ち鳴らし、城内および城外に時刻を知らせた。
この「漏刻」の制度については、1456年の朝鮮の記録に「(琉球のそれは)我が国のものと何らかわりない」と記されている。
日影台(にちえいだい)
「漏刻門(ろうこくもん)」の正面に置かれているのが「日影台(にちえいだい)」という日時計である。往時もこの場所におかれ、水時計の補助的な道具として使われた。
1739年、従来の漏刻は不完全であるとして、はじめて日影器(にちえいき)を製作し設置したと伝えられる。以後、この時間制度は1879年(明治12)廃藩置県(はいはんちけん)まで続いた。
万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)
この鐘は歴史資料では1458年に首里城正殿に掛けられていたと記録されているが、具体的な設置場所が不明であるため、当面ここに設置している。
沖縄県立博物館に収蔵されている「万国津梁の鐘」のレプリカである。鐘には「琉球国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国、日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である。」という主旨の銘文が刻まれており、往時の海洋王国としての誇らしい心意気が示されている。
広福門(こうふくもん)
「広福(こうふく)」とは、「福を行き渡らせる」という意味である。「広福門(こうふくもん)」は別名「長御門(ながうじょう)」といい、第四の門である。建物そのものが門の機能をもっており、この形式も首里城の城門の特徴である。
門前は城内でも眺めの良いところで、眼前にハンタン山の緑を映す龍潭(りゅうたん)の池や、沖縄県立芸術大学が見える。東には弁財天堂(べざいてんどう)の屋根や円覚寺の総門が続き、遠くに虎瀬山(とらずやま)や弁ヶ嶽(べんがだけ)の丘の緑が遠望できる。
創建年は不明である。明治末期頃に撤去され、1992年(平成4)に復元された。
王府時代、この建物には神社仏閣を管理する「寺社座(じしゃざ)」と、士族の財産をめぐる争いを調停する「大与座(おおくみざ)」という役所が置かれていた。現在は、券売所等に利用されている。
下之御庭(しちゃぬうなー)
「下之御庭(しちゃぬうなー)」とは、沖縄の表現で「下の庭」という意味である。
首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る前の広場で、正殿前で行われる様々な儀式の控え場であり、正殿の建築工事の際には資材置場等として使用された。現在は城内でのイベント等の際に利用されている。
系図座・用物座(けいずざ・ようもつざ)
「下之御庭(しちゃぬうなー)」の西側にある建物は、「系図座(けいずざ)」と「用物座(ようもつざ)」という役所があった建物である。
「系図座」は士族の家系図を管理していた役所、「用物座」は場内で使用する物品、資材等の管理を行った役所である。
2000年に復元され、現在は休憩所と情報案内所として使用されている。
首里森御嶽(すいむいうたき)
城壁の手前にある礼拝所を「首里森御嶽(すいむいうたき)」という。「琉球開闢(かいびゃく)神話」によれば、神が造られた聖地であるとされている。また、城内にはここを含めて「十嶽(とたけ)」と呼ばれる10ヶ所の礼拝所があったといわれる。
琉球最古の歌謡集『おもろさうし』にも「首里森御嶽」に関する詩歌が多数登場する。1997年(平成9)12月に復元された。
奉神門(ほうしんもん)
神をうやまう門という意味で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門である。1562年には石造欄干(せきぞうらんかん)が完成したという記録があることから創建はそれ以前である。その後1754年に中国の制に倣い改修した。建物は明治末期頃に撤去されたが、1992年(平成4)に外観が復元された。現在は公園管理のための施設として利用されている。
別名「君誇御門(きみほこりうじょう)」ともいう。向かって左側(北側)は「納殿(なでん)」で薬類・茶・煙草等の出納を取り扱う部屋、右側(南側)は「君誇(きみほこり)」で城内の儀式のとき等に使われた。
3つの門のうち中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)等限られた身分の高い人だけが通れる門である。それ以外の役人は両側の門から入城した。
正殿(せいでん)
正殿は琉球王国最大の木造建造物で国殿または百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)とよばれ、文字通り全国百の浦々を支配する象徴として最も重要な建物であった。
正殿を二層三階建てとすることや装飾化した龍柱は日中にも類例がなく、琉球独自の形式といってよいだろう。
首里城正殿の壁等の彩色塗装には、桐油が塗られている。なお、下地の一部は漆である。
正殿(せいでん)の彫刻
正殿(せいでん)は言うまでもなく首里城で最も中心的な建物である。
木造の三階建で、一階は「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場、二階は「大庫理(うふぐい)」と呼ばれ、国王と親族・女官らが儀式を行う場であった。三階は通気を目的とした屋根裏部屋である。
創建年は、復元に先立って実施された発掘調査から14世紀末頃と見られている。その後ほぼ同位置で数度の焼失・再建を繰り返してきた。現在の建物は18世紀初めに再建され、沖縄戦で焼失するまで残っていた正殿をモデルに1992年(平成4)に復元したものである。
正殿の建築は、中国の宮廷建築と日本の建築様式を基本にしながら琉球独特の意匠(いしょう)にまとめられている。正面の石階段の両脇に龍の彫刻があるが、これを「大龍柱(だいりゅうちゅう)」と言い、手すりの奥にはもう一対「小龍柱(しょうりゅうちゅう)」がある。その他柱や梁(はり)等にも龍の彫刻が多数施されている。龍は国王の象徴であり、たくさんの龍が首里城には棲んでいる。
御差床(うさすか)
国王が座る玉座。
御差床背後の障子戸を開くと、奥に国王専用の階段(おちょくい)がある。国王はその階段を使って2階から御差床に出御した。御差床左右の柱には龍が描かれ、そのまわりには雲が配色されている。
なお、国王の椅子については、1477年~1526年まで在位した尚真王の御後絵(肖像画)をもとに再現したものである。
2階にも1階と同じ場所に御差床があるのは極めてめずらしいと言われている。特に2階の御差床は絢爛豪華(けんらんごうか)な意匠となっている。
正殿 1階
正殿1階は「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場であった。
中央の華麗な部分が「御差床(うさすか)」と呼ばれ、政治や儀式の際に国王が出御(しゅつぎょ)する玉座である。左右には国王の子や孫が着座した「平御差床(ひらうさすか)」がある。裏側には二階に通じる階段があり、国王はこの階段を降りて御差床についた。
御差床の両脇の朱柱(しゅばしら)には金の龍と五色の雲が描かれ、天井は丸く上部に折上げて格式をもたせている。また記録によると、両脇の床には、麒麟(きりん)、鳳凰(ほうおう)の絵が掛けられていた。
正殿 2階
正殿2階は、日常的には王妃や身分の高い女官たちが使用した空間であり「大庫理(うふぐい)」と呼ばれていた。2階の「御差床」は国王の玉座として様々な儀式や祝宴が行われたところである。なお、儀式の際には床の間には香炉(こうろ)、龍の蝋燭台(ろうそくだい)、金花、雪松等が置かれ、壁には孔子像の絵が掛けられていた。部屋の上部にはかつて中国皇帝から贈られた御書(ぎょしょ)の扁額(へんがく)が幾つも掲げられていた。「中山世土(ちゅうざんせいど)」の扁額(へんがく)は古い記録をもとに再現したものである。
壇の形式は寺院の須弥壇(しゅみだん)に似ており、側面の羽目板には葡萄(ぶどう)と栗鼠(りす)の文様が彫刻されている。高欄には正面に一対の金龍柱(きんりゅうちゅう)が立ち、他の部材には黒漆(くろうるし)に沈金(ちんきん)が施されている。
「御差床」の正面にある部屋は「唐玻豊(からはふ)」と呼ばれ、正月の儀式や中国皇帝への親書を送る時などに、国王が椅子に座り御庭に並ぶ諸官とともに儀式を執り行った重要な場所である。唐玻風造(からはふうづくり)の屋根や龍の飾りに囲まれた格式ある空間になっている。
南東隅の部屋は「おせんみこちゃ」と呼ばれ、国王自ら女官とともに毎朝東方に向かって拝んでいた。「御床(おとこ)」には神棚として神霊が祀(まつ)られ、女官は抹香(まっこう)を焚いて「火の神(ひぬかん)」等を拝礼した。身分の高い神女(しんじょ)の任命儀式なども、国王、王妃臨席のもとここで行われた。三階は主に通風のために設けられた屋根裏部屋である。
御庭(うなー)
「御庭(うなー)」は首里城の中心部である。
正面が「正殿」、向かって右(南側)が「南殿・番所(なんでん・ばんどころ)」、左(北側)が「北殿(ほくでん)」で、これらに囲まれた中庭広場の空間を「御庭」という。
年間を通じて様々な儀式が行われた広場である。御庭には磚(せん)【敷き瓦】というタイル状のものが敷かれているが、この色違いの列は、儀式の際に諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割をもっていた。
中央の道を「浮道(うきみち)」といい、国王や中国皇帝の使者【冊封使(さっぽうし)】等限られた人だけが通ることを許された。
南殿・番所(なんでん・ばんどころ)
庭から向かって右側が「番所(ばんどころ)」
左側が「南殿(なんでん)」である。「番所」は、通常は首里城へ登城してきた人々の取次を行った所であり、「南殿」は日本風の儀式が行われた所である。
いずれも塗装を施したという記録がなく、また元々日本的な建築であるため着色はしていない。現在はいずれも資料展示スペースとして利用されている。
「南殿(なんでん)」は別名「南風御殿(はえのうどぅん)」とも呼ばれていた。創建は1621~27年といわれているが、発掘調査ではそれ以前の基壇(きだん)らしきものも発見されている。
建物は二階建で、地形を利用して裏側にある「書院・鎖之間(さすのま)」等に通じていた。
なお、番所の展示室中央に飾られている中国風の傘は、琉球では「御涼傘(うりゃんさん)」といい、もとは日傘から発生したものだが、実際は国王や高貴な人が行幸するときの装飾用として使われた。
右掖門(うえきもん)
右掖門は眼下に見える歓会門(かんかいもん)、久慶門(きゅうけいもん)から淑順門(しゅくじゅんもん)へ直接通じている門で、往時は淑順門から御内原(おうちばら)へ入った。この門は歓会門から東にあり、ほぼ直線で約160メートルの石畳道が続いている。
別名「寄内御門(よすふぃちうじょう)」ともいい、創建は15世紀頃と伝えられる。沖縄戦で焼失したが、1992年(平成4)に櫓から下の城壁部が復元され、2000年(平成12)に櫓(やぐら)が復元された。
現在はルートの関係上、御庭(うなー)からの出口として利用されている。
淑順門(しゅくじゅんもん)
淑順門は国王やその家族が暮らす御内原(おうちばら)と呼ばれる場所への表門で、琉球語の古称は「みもの御門」「うなか御門」である。
建物の創建年は不明とされており、2010年(平成22年)に復元された。
門の造りは櫓門形式・入母屋造・本瓦葺となっている。
久慶門(きゅうけいもん)
久慶門は別名「ほこり御門(うじょう)」ともいう。歓会門(かんかいもん)が正門であるのに対し、ここは通用門で主に女性が利用したといわれている。国王が寺院を参詣(さんけい)したり、浦添から以北の地方へ行幸(ぎょこう)するとき等に使用した門であった。創建は1477~1526年【尚真王代(しょうしんおう)】といわれ、1983年(昭和58)に復元された。
順路の関係から現在は出口専用になっているが、往時は日常的に人々が出入していた門である。
門の左手に「寒水川樋川(すんがーひーじゃー)」と呼ばれる湧水がある。またここから左手には先に見た「龍樋(りゅうひ)」がある。つまりこの辺りは城内に降った雨が地下に浸透し、再び湧水としてでてくる場所である。
西のアザナ(いりのあざな)
標高約130mの城郭の西側に築かれた物見台で、ここからは那覇の町や那覇港の様子、そして遠く水平線上に慶良間諸島などが展望できる。
別名「島添(しまそえ)アザナ」ともいい、往時はここに旗を立て、鐘を備えて時刻を報じた。城外、城内を眺望するには最高の場所である。
京の内(きょうのうち)
「下之御庭」南側の石垣の向こう側は「京の内(きょうのうち)」という城内最大の信仰儀式の場である。
首里城発祥の地ともいわれ、琉球独自の信仰の最高位に位置する聞得大君(きこえおおきみ)や大アムシラレといった神女(しんじょ)たちが、ここで王家繁栄、航海安全、五穀豊穣(ごこくほうじょう)等を神に祈っていた。
冊封七碑(さっぽうしちひ)
「冊封七碑」とは、龍樋(りゅうひ)の周辺に設置されている七つの石碑のことである。
中国皇帝の使者として琉球国王の即位を宣言するために遣わされた歴代の「冊封使(さっぽうし)」たちは、龍樋の水の清らかさを讃え、漢詩を詠んだり題字を残した。それらの碑は沖縄戦で破壊され、ほとんど現存しないが、1984年(昭和59年)発掘調査の際に「飛泉(ひせん)」という割れた石碑が発見され、沖縄県立博物館に保存されていた「漱玉(そうぎょく)」という石碑の残り半分であることが判明し当時話題になった。「飛泉漱玉(ひせんそうぎょく)」とは清らかな泉が玉のように飛び散っているという意味である。現在ある七碑は拓本をもとに復元され、題字者・大意は以下のとおり。
中山第一(ちゅうざんだいいち)
題字者:徐葆光(じょほこう)
来沖年:1719年
大意:泉の水量は、水質は琉球第一の泉である。
雲根石髄(うんこんせきずい)
題字者:全魁(ぜんかい)
来沖年:1756年
大意:山の高いところの穴から湧き出る石の乳である。
暘谷霊源(ようこくれいげん)
題字者:趙文楷(ちょうぶんかい)
来沖年:1800年
大意:東のはての日の出るところにある不可思議な泉である。
活潑潑地(かつはつはつち)
題字者:斉鯤(せいこん)
来沖年:1808年
大意:魚がはねるように水の勢いが極めて活発な泉である。
飛泉漱玉(ひせんそうぎょく)
題字者:高人鑑(こうじんかん)
来沖年:1838年
大意:清らかな泉があたかも玉のように飛び散っている。
霊脈流芬(れいみゃくりゅうふん)
題字者:趙新(ちょうしん)
来沖年:1866年
大意:霊妙の水脈から出る薫り高い流れである。
ご来園前にお読みください
首里城公園は、標高120メートル~130メートルの小高い丘の上に立地しています。
那覇の町が見下ろせる高台にあり、この首里の丘は聖地的な存在でした。
首里城公園は、琉球王国時代の姿を復元し、整備されているため、園内は、坂や階段、石畳道も多くなっております。ご来園の際は、歩きやすい履物でお越しいただくことをおすすめします。
入館料金
対象区域:正殿・奉神門・南殿・番所・書院・鎖之間・黄金御殿・寄満・近習詰所・奥書院・北殿
大人 | 中人(高校生) | 小人(小・中学生) | 6歳未満 | |
---|---|---|---|---|
一般(20名未満) | 820円 | 620円 | 310円 | 無料 |
団体(20名以上) | 660円 | 490円 | 250円 | |
年間パスポート | 1,640円 | 1,240円 | 620円 |
※身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳の交付を受けている方は、券売所窓口にて手帳を提示していただくと無料となります。また上記の手帳をお持ちの方1名につき、介護者1名まで無料で入館できます。
※20名以上の団体については、まとめて券売所窓口にてお買い求めください。
※券売所にて入館券をご購入の際、身分証(免許証・学生証等)のご提示をお願いする場合がございます。
※クレジットカード及び電子マネーのご利用について詳しくはこちらをご覧ください
再入館について
再入館をご希望の場合、再入館スタンプの押印で当日に限り再入館できます。
最寄の係員までお申し付け下さい。
※入館時のチケット(半券)は必ずお持ち下さい。
開園・開館時間
開園時間(無料区域)
対象区域:歓会門、木曳門、久慶門
期間 | 開園時間 |
---|---|
4月~6月 | 8:00~19:30 |
7月~9月 | 8:00~20:30 |
10月~11月 | 8:00~19:30 |
12月~3月 | 8:00~18:30 |
開館時間(有料区域)
対象区域:正殿・奉神門・南殿・番所・書院・鎖之間・黄金御殿・寄満・近習詰所・奥書院・北殿
期間 | 開館時間 | 入館券販売締切 |
---|---|---|
4月~6月 | 8:30~19:00 | 18:30 |
7月~9月 | 8:30~20:00 | 19:30 |
10月~11月 | 8:30~19:00 | 18:30 |
12月~3月 | 8:30~18:00 | 17:30 |
休館日について
首里城公園施設の一部休館日:7月の第1水曜日とその翌日
休館対象施設
1.有料区域内施設
(正殿、御庭、南殿・番所、書院・鎖之間、黄金御殿・寄満・近習詰所・奥書院、北殿)
※対象施設以外は、通常どおりご見学いただけます。
2.首里杜館
(レストラン、売店、地下駐車場を含む)
※地下駐車場はご利用になれません。ご来園の際はバス・モノレール等の交通機関をご利用下さい。
観光名所 | 首里城公園(しゅりじょうこうえん) 首里城(しゅりじょう) |
---|---|
住所 | 〒903-0815 沖縄県那覇市首里金城町1-2 (首里城公園管理センター) |
お問い合わせ | TEL:098-886-2020 FAX:098-886-2022 (対応時間 AM 9:00~PM 17:00) |
東御廻り(あがりうまーい)の由来
「東御廻り」とは。沖縄民族の祖先「アマミキヨ族」が住み着いたと伝えられる知念・玉城の霊地巡拝行事です。 首里城を中心に、大里・佐敷・知念・玉城を「東方(あがりかた)」と呼んだことから、知念・玉城の聖地巡拝を「東御廻り」と称しました。 久高島は麦の発祥地、玉城は稲の発祥地として国王自ら参詣しました。東御廻りに癒やしを求めて
古来より沖縄では太陽の昇る東方(あがり)と呼び、そこは理想郷のある神聖なる方角であると考えられていました。 東御廻りとは、創造神・アマミキヨが二ライカナイから渡来して住みついたと伝えられる霊地を巡拝する行事の事です。 起源は国王の巡礼といわれ、王国の繁栄と五穀豊穣を祈願する行事として始められたと伝えられています。 現在伝えられている東御廻りのコースは琉球王国が、国家的祭祀ルートとして指定したものです。 最近では心と体を癒すための自己発見の道しるべや健康的なレクリエーションとして東御廻りをする方々が増えてきているそうです。 因みに、東御廻りコースは14ヶ所あります。14箇所の東御廻り一覧
東御廻りの一覧をまとめてみました。興味がある方はどうぞ足を運んでみてはいかがでしょうか?- 1.園比屋武御嶽(そのひゃんうたき) いにしえより国家行事や祭祀と密着。国王も聞得大君も道中の安全をここで祈念して出発したといわれている、東御廻りの第1番目の拝所。
- 2.御殿山(うどぅんやま) 与那原親川(よなばるうぇーがー)は御水撫でや東御廻りの御用水が汲み上げられた霊泉。御殿山に舞い降りた天女の御子の産井とも伝えられ、人々の憩いの場としても親しまれる。
- 3.親川(うぇーがー)与那原親川(よなばるうぇーがー) 琉球三山統一を果たした尚巴志の祖父・佐銘川大主が祀られている御嶽。現在の場所は移転地で、イビ御嶽ほか5つの拝所が点在する。
- 4.場天御嶽(ばてんうたき) 琉球三山統一を果たした尚巴志の祖父・佐銘川大主が祀られている御嶽。現在の場所は移転地で、イビ御嶽ほか5つの拝所が点在する。
- 5.佐敷上グスク(さしきがみぐすく) 尚思招・尚巴志父子によって築かれ、居城とされた。グスク跡には、尚巴志の一族を祀ったつきしろの宮が建立されている。別名「上グスク」
- 6.テダ御川(てだうっかー) 太陽神が降臨した霊泉といわれている。国王や聞得大君が久高島参詣のときには、祝女(ノロ)たちが航海安全を祈願してオモロを謡い祈った。
- 7.斎場御嶽(せーふぁうたき) 琉球の精神文化の象徴であるといわれる琉球開びゃく七御嶽のひとつ。聞得大君の即位儀礼・御新下りが行われた、東御廻り最高の聖地。
- 8.知念グスク(ちねんぐすく) 沖縄最古の歌謡集・おもろさうしにも謡われた、正門・裏門の石造りのアーチ門が美しいグスク。城内の友利御之嶽(とむいぬたき)が、東御廻りの拝所。
- 9.知念大川(ちねんうっかー) 知念グスクの西側入口にある井泉。玉城の受水・送水とともに、アマミキヨが稲をこの地に初めて植えたという稲作発祥の地として知られる。
- 10.受水走水(うきんじゅはいんじゅ) 緑の中でこんこんと湧き出る2つの泉と神田。琉球における稲作発祥伝説の舞台では現在も稲の始まりを神に感謝する行事が執り行われている。
- 11.ヤハラヅカサ アマミキヨが本島に降り立った、その最初の地と伝えられている。石碑は満潮時には海中に没して見えなくなり、干潮時に全貌を現す。
- 12.浜川御嶽(はまがーうたき) アマミキヨが仮住まいをした地。王府の東御廻りの地。
- 13.ミントン城跡(みんとんぐすく) アマミキヨが丘陵部へ進出して開いた安住の地と伝えられる。普通にいうグスクより祭祠遺跡として名高い、古代からの聖地と言われています。
- 14.玉城グスク(たまぐすくぐすく) 別名(アマツヅグスク)とも呼ばれる、アマミキヨが築いた琉球七御嶽のひとつ。本丸門はニライカナイに通じると伝えられている
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