勝連城(かつれんじょう)

勝連城(かつれんじょう)

勝連城(かつれんじょう)

世界遺産 勝連城(かつれんじょう)

勝連城跡(かつれんじょうせき)は、1972年(昭和47年)5月15日に国指定史跡となりました。
そして、2000年12月2日に琉球王国のぐすく及び関連遺産群として世界遺産登録。

勝連城(かつれんじょう)

勝連城(かつれんじょう)

勝連城跡は沖縄本島の中部、勝連半島の根元に位置する高台の上に築かれました。
中城湾や海中道路・知念半島までが、周囲360度見渡すことができる絶景スポットとして楽しめる有名な城(ぐすく)です。

勝連城は琉球王国統一の過程で国王に最期まで抵抗した阿麻和利(あまわり)が居城した城と言われています。
阿麻和利(あまわり)が居城した勝連城跡は、沖縄の城の中でも最古の城で12世紀から13世紀頃の築城と考えられています。

勝連城(かつれんじょう)

勝連城(かつれんじょう)

勝連城(かつれんじょう)

勝連城(かつれんじょう)

勝連城(かつれんじょう)

勝連城(かつれんじょう)

勝連城(かつれんじょう)

勝連城(かつれんじょう)

勝連城(かつれんじょう)

勝連城(かつれんじょう)

勝連城(かつれんじょう)

勝連城(かつれんじょう)

勝連城跡を訪れると自然と城の歴史に興味を持ちます。
城(ぐすく)の外壁や、城跡(じょうせき)の調査で見つかったヨーロッパのコイン、阿麻和利(あまわり)がどういった人物なのか?
歴史を体感しながら勝連城跡を登ってみるのもいいかもしれません。

勝連城(かつれんじょう)

勝連城(かつれんじょう)

 

勝連城の案内版

勝連城は、阿麻和利(あまわり)の居城として知られ、その前の城主は茂知附按司(もちづきあじ)だったと伝えられている。
1458年、中城城主の護佐丸を滅ぼした阿麻和利は、その勢いで首里城を攻めたが大敗し、その後、城は廃城になったといわれている。
城跡は、一種の梯郭式山城で、一の郭、二の郭、三の郭、四の郭、東郭からなり、四方に琉球石灰岩の切石の石垣をめぐらしている。
発掘調査の結果、一の郭に規模不明の瓦葺建物跡、二の郭に基石を有する殿舎跡が確認されている。
また、城内からは多量の輸入陶磁器をはじめ武器や武具、古銭などが出土し、なかでもすぐれた元様式の青花磁などから当時の繁栄ぶりをしのぶことができる。

[引用:勝連城案内板・勝連町教育委員会]

四の曲輪(よんのくるわ)

勝連城かつれんじょうの中で最も広い面積をもつ曲輪くるわです。曲輪くるわ内に五箇所の泉があり、泉を守るように四の曲輪くるわの城壁が巡っています。城壁の南側には南風原御門はえばるうじょう、北側には西原御門にしはらうじょうがあったと考えられており、現在では両門の跡と門に続く石畳道が確認できます。

また2014年の調査で、二の曲輪くるわの舎殿しゃでんと同様の建物跡がここで見つかりました。当時、石畳道を上り城門をくぐった人々は、眼前にそびえ立つ気高き勝連城の圧倒的迫力に息を飲んだことでしょう。

マチダ・ナケージガー

沖縄全域にみられる御嶽うたき(聖地)の中でも、王府編纂へんさんの地誌『琉球国由来記りゅうきゅうこくゆらいき』に記載されている、「マチダの御嶽うたき」「ナケージの御嶽うたき」に縁起を持つ特別な場所です。王国時代より神々と繋がる泉(カー)として、少なくとも300年以上の歴史を持った祈りの場であると考えられています。
以前は「ヌールガー」と呼ばれていましたが、聞き取り調査より「マチダ・ナケージガー」であることが分かりました。旧暦の二月と八月に村の安寧を祈る「御願うがみ」を行う場所で、現在も地域の信仰の対象となっています。

仲間ヌウカー(カンジャガー)

12世紀から15世紀前半のグスク時代、この地域の鍛冶屋かじや(カンジャー)であった「仲間家が使用していた泉である」という伝説から、「カンジャーガー」とも呼ばれています。周辺の発掘調査で、鍛冶屋かじや跡は現在のところ発見されていませんが、仲間家先祖は安全な場所を求めて、鍛冶屋かじやの場所を替えながら武具の製作や修理を行っていたと言われています。

ウタミシガー

「ウタミシ」はお試し、「カー(ガー)」とは泉を意味する沖縄の言葉です。
旧暦元旦の初拝はつうがみの際に、水の量によって一年の豊作・凶作を占うことから、「ウタミシガー」という名前が付いたと伝えられています。この泉の水量が豊富にあるときは「サーイ年(不作の年)」、水が少ないときは「ユガフーの年(豊作の年)」と言われています。

勝連城跡 マチダ・ナケージガー

勝連城跡 マチダ・ナケージガー

勝連城跡 仲間ヌウカー(カンジャガー)

勝連城跡 仲間ヌウカー(カンジャガー)

勝連城跡 ウタミシガー

勝連城跡 ウタミシガー

三の曲輪(さんのくるわ)

三の曲輪ではこれまでの調査の結果、時代の移り変わりの様子がわかりました。
古い時代は掘立柱の建物が建ちならび、表面に粘土を貼ったすり鉢状の遺構も中央部で見つかっています。

これは水を貯める施設ではないかと考えられています。
新しい時代になるとこの三の曲輪全体が二の曲輪に建っていた殿舎建物と一対をなし、儀式などを執り行う広場に変わっていきました。

その後、城が滅んでから祭祀の場として使用され、中央西側に「肝高の御嶽」。
その近くに神人たちが祭祀の際に休憩する「トゥヌムトゥ」と呼ばれる石列などが遺されています。

神人の腰掛け(トゥヌムトゥ)

ここに並(なら)べられている石(いし)はトゥヌムトゥと呼(よ)ばれ、旧暦(きゅうれき)の2月と5月に行われる祭祀(ウマチー)の時に神人(かみんちゅ)たちが腰掛(こしか)けたりするものです。
いつの頃から置かれたかはわかりませんが、整備にあたっては、動かさずにそのままの状態で置いてあります。

すり鉢状遺構 No1

この表示(ひょうじ)は、ここに埋(う)もれている遺構(いこう)を表現(ひょうげん)しています。遺構(いこう)の表面(ひょうめん)には粘土(ねんど)を張(は)りつけていることから、水(みず)を溜(た)める施設(しせつ)と考(かんが)えられます。

すり鉢状遺構 No2

この表示(ひょうじ)は、ここに埋(う)もれている遺構(いこう)を表現(ひょうげん)しています。遺構(いこう)の表面(ひょうめん)には粘土(ねんど)と、こぶし大(だい)の石(いし)を張(は)りつけてあります。

勝連城跡 神人の腰掛け(トゥヌムトゥ)

勝連城跡 神人の腰掛け(トゥヌムトゥ)

すり鉢状遺構 No1

すり鉢状遺構 No1

すり鉢状遺構 No2

すり鉢状遺構 No2

埋葬人骨

城門脇の城壁に接したところからグスク時代に属する幼児の人骨が折り曲がった状態で発掘されています。
なぜ城壁に接して葬られたのか、なぜ半分に折り曲げられて葬られたのか、グスク時代の社会状況を考える上でも貴重な資料です。また、グスク時代の人々のルーツを解明する上でもたいへん重要です。

勝連の按司の系譜

伝承ではこのグスクの城主は英祖王系2代目「大成王」の五男勝連按司だったと伝えています。
この王統は五代まで続きましたが世継ぎがなかったことから、養子縁組により伊波グスク「伊波按司」の六男を迎えたと伝えられています。
その後、交代の理由ははっきりしませんが7・8代目が「浜川按司」、9代目は「茂知附按司」といいます。
茂知附按司は圧政を敷いたことから人々の信望を失い、やがて「阿麻和利」にとって代わられたといわれています。
参考までに伝承の上での系譜を記しておきます。

二の曲輪(にのくるわ)

二の曲輪では、正面約17m、奥行き約14.5mの大きな殿舎跡が発見されました。この建物は城の中でもっとも重要な建物であったと考えられています。
礎石のあるしっかりした建物で、屋根は板または草葺き であったと考えられていますが、周辺からは大和系瓦も発見されることから一部瓦葺きだった可能性もあります。

二の曲輪(にのくるわ)

二の曲輪(にのくるわ)

また、建物の四隅には長方形の石灰岩による石積みが発見されています。この石積みは、建物と同時にあったと考えられていますが、機能についてはわかっていません。
また、二の曲輪の西側には地元で「火の神」と呼ばれている場所があります。

 

ウシヌジガマ

二の曲輪の北西側の洞穴は、「ウシヌジガマ」と呼ばれています。
「ウシヌジガマ」とは、伝説では敵に攻められ、危険なときに「身を隠し、凌しのぐ」という意味があります。

ウシヌジガマ

ウシヌジガマ

火の神(ひぬかん)ウミチムン

火の神(ひぬかん)ウミチムンがあり、台所があった場所だと考えられているそうです。
沖縄では今でも主婦が家族への加護を願って、台所で火の神様を祀っているそうです。

火の神(ひぬかん)ウミチムン

火の神(ひぬかん)ウミチムン

一の曲輪(いちのくるわ)

一の曲輪は、1965(昭和40)年から数回にわたって発掘調査が行われ、いろいろなことがわかりました。
岩盤をけずって平坦にするなど大がかりな土木工事を行い、瓦ぶきの建物があったことがわかっています。

多くのグスクの中で瓦ぶきの建物があったのは、現在のところ勝連城 のほかには首里城、浦添城だけです。
出入口の門付近から唐草様の浮き彫りのついたアーチ石の一部が発見されており、装飾を施した豪壮なアーチ門であった可能性があります。

玉ノミウヂ御嶽(たまのみうぢうたき)

玉ノミウヂ御嶽(たまのみうぢうたき)

玉ノミウヂ御嶽(たまのみうぢうたき)

一の曲輪くるわのほぼ中央にある、勝連かつれんを守護する大きな霊石をご神体とする御嶽うたきです。ここでは、村の繁栄が祈願されていました。
霊石の表面が平坦にされていることから、グスク時代には、建物の基礎に利用されていたとみられます。
発掘調査により、かつてこの曲輪には宝物殿ほうもつでんのような建物があったことが分かっています。
また、霊石脇にある洞穴は「かつては二の曲輪くるわのウシヌジガマと繋がっており、有事の際の避難路として使用されていた」という伝説が残されています。

勝連城跡の詳細

勝連城復元鳥瞰図

画は、東方から見た勝連城復元鳥瞰図。
遠方の海は中城湾(なかぐすくわん)、左上方が中城城(なかぐすくじょう)です。

口碑伝承では、初代城主は英祖王(えいそおう)系・大成王の五男であったといわれています。
その後勝連按司は4代続き、6代目に世継ぎができないことから養子縁組みにより伊波グスクの伊波按司(いはあんじ)の六男が迎えられています。続く7・8番目は交代の理由は判りませんが浜川(はまかわ)按司になっています。

そして9番目は茂知附(もちづき)按司となります。
しかしこの按司は圧政を敷き酒に溺れたことから、人々の信頼の厚い阿麻和利(あまわり)によって倒されます。
彼が10番目の城主になってからは勝連はますます栄えることとなったとあります。

阿麻和利は琉球国王の尚泰久(しょうたいきゅう)の娘を妻にするほどの力をもち、中城城の護佐丸(ごさまる)を撃ち天下の統一を夢見たが1458年王府軍に攻められて落城してしまいます。

おもろそうしと勝連と阿麻和利

勝連(かつれん)や阿麻和利(あまわり)について、沖縄最古(おきなわさいこ)の歌謡集(かようしゅう)である「おもろそうし」に数多く詠(よ)まれていて、勝連は「きむたか(肝高)」と表現され日本本土の京都(きょうと)や鎌倉(かまくら)にたとえられるほど繁栄(はんえい)していたとあります。

史跡 勝連城跡

1.史跡 勝連城跡
2.指定年月日 1961年4月11日
3.指定理由 勝連城は14世紀初期から始まり15世紀中期で終わる勝連按司系、浜川按司系、茂知附按司系、阿麻和利按司などの興亡をひめた連郭式の平山城である。

4.説明事項
文化財保護委員会は1964年から1966年までの3次にわたる城内外の発掘調査を実施した。
1970年には日本政府の援助によって城全域の遺構調査を実施し2の丸の舎殿跡などの各所に新しい遺構が発掘された。

面積
総面積 2027m2
本丸 633m2
2の丸 1207m2
3の丸 1922m2
4の丸 6948m2
東の郭 1259m2

5.保存上注意すべき事項
みだりに現状を変更しないこと
城内からは石を持ち出さないこと

世界遺産勝連城跡休憩所

休憩所の駐車場前には、勝連城跡の立体模型を見る事ができます。
休憩所の中には、沖縄のちょっとした土産品も販売していました。
ゆっくり休める畳間もありました。

その他、うるま市内や勝連城跡で発掘して見つかった遺産物を展示していて歴史を感じる事もできます。
勝連城のミニ模型もあり、細かく建物が再現されていて、昔ながらの勝連城の姿を見る事もできます。
勝連城の休憩所は設備が色々と整っていて便利でした。

観光名所 世界遺産
勝連城(かつれんじょう)
勝連城跡(かつれんじょうせき)
住所 〒904-2311
沖縄県うるま市勝連南風原3908
電話番号 0098-978-7373
(本部町企画商工観光課)
入場料 無料
駐車場 無料
休憩所 有り
アクセス 那覇空港から車で約2時間

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