今帰仁城跡(なきじんじょうせき)

世界遺産 今帰仁城跡

今帰仁城跡

今帰仁城跡

沖縄本島の北部、本部半島にある歴史的なグスクです。
世界遺産にも登録されたグスクは、沖縄県の県庁所在地である那覇市から車で約1時間30分の距離にあります。

今帰仁城跡の歴史は古く、13世紀までさかのぼるとされています。堅牢な城壁に囲まれたその城は、標高約100メートルに位置し、やんばるの地を守る要の城でした。

今帰仁城跡

今帰仁城跡

今帰仁城跡

今帰仁城跡

今帰仁城跡

今帰仁城跡

今帰仁城跡の写真 世界遺産攀安知(はんあんち)時代に、中山軍(ちゅうざんぐん)に滅ぼされてからは、監守(かんしゅ)が派遣されるようになり、1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを執り行う場所として残されました。

外郭(がいかく)

今帰仁城跡から見る絶景

今帰仁城跡から見る絶景

外郭全体は非常に広く、低めの城壁で囲まれています。東側の城壁はほぼ昔のまま残っています。西側は復元された城壁が見えます。
今帰仁城に仕える家臣団が住んでいたと考えられています。中国陶磁器や住居跡が発屈されています。
外郭内には、祭祀に使われる船をかたどった「レコーラウーニー」や、現在も多くの参拝者の訪れる拝所「古宇利殿内(ふいどぅんち)」があります。

外郭城壁

外郭の城壁は高さは低いものの、幾重にも曲がりくねっていて、人を容易に寄せ付けない感があります。

高官住居跡

外郭へ入ると、まず、大きな石積みの土台が目につきます。発掘調査報告によると、高官の住居で、出土した陶磁器などから1600年代半ばのものです。

1600年代半ばといえば、薩摩軍による琉球侵攻(1609)の後です。従来の定説では、高官すなわち首里王府から派遣された監守は、海沿いの今泊集落へ下りて住んでいたことになっています。

ですから、1600年後半に外郭に住んでいたのなら、定説を覆す発見です。地元紙沖縄タイムスおよび琉球新報朝刊のトップに大きく取上げられました。

レコーラウーニー

ウーニーとは「船」のこと。土盛りの船に神人(かみんちゅ)が乗って、舟こぎの動作をおこない、航海安全の祈願をしました。海洋王国である琉球にとって、航海安全は国の存続に関わる大事なことでした。
写真では、手前の長い土盛りと、やや中央の短い土盛りがウーニーです。

古宇利殿内(ふぃどぅんち)

古宇利島のことを地元では「ふぃ」と言います。古宇利島を治めた上級役人の住居跡と考えられます。なんらかの事情で移転したので、火の神を残して行ったのでしょう。祠は古写真を元に復元されました。古宇利島の人々が拝む火の神とされています。

今帰仁城跡 平郎門(へいろうもん)

今帰仁城跡 平郎門(へいろうもん)

今帰仁城跡 平郎門(へいろうもん)

平郎門は今帰仁城の正門です。昭和37年に修復され、現在の形になっています。
門は狭く、やや窪んだ位置に造られているため、攻めにくい構造になっていることがうかがえます。
両側に2つずつ開いている狭間は、門番が外を見張るための、のぞき窓になっています。

平郎門の周りには緋寒桜の木が植えられていて
1月から2月上旬まで桜の花見が楽しめます。

平郎門の裏話

平郎門は昭和37年、琉球政府時代に修復と復元がなされました。
修復のための設計図が描かれる際、古老からの聞き取り調査に基づいたといわれています。修復工事の際、門の根石が見つかったため、門の位置と幅は根石に合わせて修正されました。
そのため、平郎門の修復前に新設された参道(七五三の階段)との継ぎ目に、わずかなズレが生じました。

七五三の階段

今帰仁城跡 七五三の階段

今帰仁城跡 七五三の階段

平郎門をくぐると緋寒桜(かんひさくら)に挟まれた、石畳のまっすぐな道があります。
七五三の階段とよばれる参道です。
一月から二月中旬には桜を見る事ができます。
参道の両側にある緋寒桜の花が満開を迎える時、桜のトンネルをくぐる事がでる人気のスポットです。

今帰仁城跡の観覧料

区分 個人 団体(10人以上)
大人 400円 320円
小中高生 300円 240円
小学生未満 無料 無料

今帰仁城跡の案内板

今帰仁城跡の概要

この城は、築城年代については明らかではありませんが、1322年頃怕尼芝(はにじ)が城主となり、その後攀安知(はんあんち)にいたる94年間で大修築をうけ、今日の規模に達したようです。
尚巴志によって滅ぼされた1416年直後、この城には首里の王権が北山地方を掌握するために北山監守が置かれました。
城内にはその由来を刻んだ「山北今帰仁城監守来歴碑」(1749年建立)が現存します。
城郭は最高所の主郭を中心とした連郭式で、西側から東側に大隅(うぅしみ)、大庭(うみやぁ)北殿跡、御内原(ううちばら)そして本丸と続き、さらに一段低くなって最後部の曲輪にいたる複雑な構造をもっています。
この今帰仁城跡は、歴史が古く規模の雄大な遺構がよく残り、特に外郭の石垣が大きく、屏風形の曲線を描いていて沖縄屈指の名城たる風格を備えています。

今帰仁城(なきじんじょう)

今帰仁城はグスク時代と呼ばれる13世紀〜17世紀初頭頃まで、城や役所としての機能を果たしていました。
この模型は最も隆盛を極めた第Ⅲ期(14世紀中頃〜15世紀初頭)の今帰仁城の姿を1/100の大きさで再現したものです。

志慶真門郭(シジマジョウカク)
家臣たちが生活した場所と考えられており、掘建柱建物跡や階段・石畳道などが確認されています。

主郭・本丸(シュウカク ホンマル)
第Ⅱ期に築いた石垣の天端まで土と石で埋め、礎石建物を建て始めたのが第Ⅲ期です。

大隅(ウーシミ)
城兵達の武闘訓練の場であったと想定され、伝承では馬等を飼育していたとされます。

大庭(ウーミャー)
南側の大庭(ウーミャー)は広場として北側の御内原(ウーチバル)は居住空間として利用されたと推定されます。

大庭(ウーミャー)

沖縄のグスクは正殿と呼ばれる主要な建物の前面に広い庭を持ち、政治・宗教が執り行われる重要な場所として利用された。大庭は北殿跡やカラウカーなど建物跡、御嶽が多く所在し、現在も祭祀が行われる重要な地区となっている。

今帰仁城跡鳥居(なきじんじょうせきとりい)

戦前に沖縄各地のグスクが皇民化教育の一環として御嶽やグスクが神社と同一化され、鳥居が建立された歴史がある。
この鳥居もこのような歴史を伝えてくれる貴重な文化財である。
今帰仁今帰仁村教育委員会
平成15年度 鳥居脚部分保存

版築(はんちく)

土を敷いて突き固め、その土にまた土を敷き突き固める。
それを何回も繰り返して、堅固な基盤を造成する土木技術のことを版築とよびます。
版築は、古代中国の殷代(BC14~12世紀)の頃に確立され、日本へは紀元4世紀頃に古墳づくりの技術に伴って伝来し、のちに主として宗教建築の神社・仏閣の基礎工事や土塁などに用いられるようになります。
沖縄県では1984年、ここ今帰仁城本丸の発掘調査で初めて発見されました。今帰仁城の本丸敷地は、もとは古生代石灰岩でできた岩山の頂上部で、東西に傾斜した地形になっており、そのままでは建物が建つような平坦な面ではありませんでした。
そこで、まず山頂部をある程度削って平らにし、つぎに東西の斜面部に土留めの石を積み土げ、最後に内側に版築をして、平場を造成しています。本丸の発掘調査で9枚の層が確認され、第8層(13世紀末頃)で丁寧な版築造成が見られます。
第8層の厚さは20㎝から120㎝あり、この層は更に1~5㎝の黄褐色や赤褐色の土層からなり、縞模様なっています。
縞模様の層を敷えると、土を約30回も敷きならし突き固めていることがわかりなす。
第8層のほか、第3層と第4層では、土と石を交互に敷きつめた平場造成がなされています。

観光名所 今帰仁城跡(なきじんじょうせき)
住所 〒905-0428
沖縄県国頭郡今帰仁村今泊5101
電話番号 0980-56-4400
開園時間 今帰仁城跡公園
8:00~18:00(最終入場17:30)
※開園時間の延長について
今帰仁城跡は季節により開園前
閉園後の開園時間の延長を行いますので
お問合せください
休館日 年中無休
※但し、予告なく特別な理由により
一部の施設を閉館する事もあります。
駐車場 無料
交通 バスご利用の場合:
本部循環線今帰仁村字今泊
今帰仁城跡入口下車徒歩15分

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