ここは、ジョン万次郎の記念碑がある翁長共同利用施設です。
ジョン万次郎はハワイに留学後、沖縄に立ち寄っていてその記念碑があるのです。
翁長共同利用施設の建物のすぐ裏手には、ジョン万次郎が滞在した高安家(たかやすけ)があります。
沖縄県にはわずか半年間、監視がついた滞在ですが集落の人々とジョン万次郎の素朴な触れ合いが伝わってきます。
糸満から歩き始め、寄り道をしながら那覇の奥武山公園まで、おおよそ17kmを歩いたとされています。
記念碑文は
「半年の間、我豊見城村の先代は、万次郎に温情あふれる接遇をしました。日本開国の先駆者ジョン万次郎が翁長に滞在された史実と、人間味あふれる先代の行動に感謝し、この地に記念碑を建立する」
と記されています。
とみぐすく万次郎音頭という歌も作られ、記念碑の横にその歌詞や万次郎の経歴・年譜を記した看板も建てられています。
記念碑が建てられた場所は翁長共同利用施設の前庭であり、翁長自治会が無償で用地を提供したそうです。
今では公民館になっており、約115人の個人団体から寄付金がよせられています。
記念碑近くには年表などの説明版も設置されています。
因みにジョン万ビーチ(大度浜海岸)はジョン万次郎が沖縄に上陸した場所になります。
ジョン万次郎記念碑
ジョン万次郎が、アメリカの帰りにこの地に滞在しました。
(一八五一年二月・旧暦一月)漂流でアメリカの捕鯨船ジョン・ハラウンド号に救助された万次郎は、アメリカの教育を受けました。
時は鎖国時代です。その為帰国の手段に琉球を最初の地に選んだとされています。
摩文仁海岸に上陸薩摩藩の取り調べの後、首里王府により帰国まで豊見城村翁長に滞在を命ぜられました。
日本開国の先駆者ジョン万次郎が翁長に滞在された史実と、人間味あふれる先代の行動に感謝し、この地に記念碑を建立する。
平成二十二年九月十二日沖縄ジョン万次郎会 会長 大城盛昌
とみぐすく万次郎音頭
ジョン万次郎記念碑の横にある唄は、とみぐすく万次郎音頭は素朴でユーモラスな歌詞だった。
1.
男一途に 大志を胸に
十四の少年 心意気
怒涛の海を 乗り越えて
歴史を刻んだ 万次郎
君は土佐の生まれのいい男
四国育ちの いい男
2.
帰りについたは 南の海の
島尻(間切)の とみぐすく
日本の歴史に一ページ
歴史を刻んだ 万次郎
君は土佐の清水のいい男
アメリカ育ちの いい男
3.
明日は故郷(いなか)へ 十年ぶりと
笑顔で送る とみぐすく
苦難の路も 祝い酒
なんのご縁か 万次郎
君は土佐の清水のいい男
とみぐすく育ちの いい男
沖縄ジョン万次郎会結成20周年記念
平成22年9月12日
ジョン万次郎と翁長高安家(じょんまんじろうとおながたかやすけ)
ジョン万次郎(中浜万次郎)は1827年、土佐藩中ノ浜村(現在の高知県土佐清水市)に貧しい漁師の子として生まれた。1841年、14歳のとき出漁中に遭難。仲間とともに無人島に漂着後、アメリカの捕鯨船に救助され米国マサチューセッツ州フェアへブンに渡った。
渡米後の万次郎は、救助したホイットフィールド船長にその才覚を見出され英語を始め航海術や造船、測量技術などを学び、捕鯨船の航海士や副船長として世界の海を駆け巡るなど異郷の地で約10年過ごしたが、望郷の念にかられ遂に帰国を決意した。しかし、遭難が原因であったとはいえ、鎖国下の日本への帰国は命がけの決断であった。
1851年旧暦1月、万次郎らは琉球国摩文仁間切小渡海岸(現在の糸満市大度)に上陸。取り調べのため最初、那覇に向け護送されるが、那覇に居留していた外国人を避けるため、手前で引き返し豊見城間切翁長村(現在の豊見城市字翁長)の高安家に留め置かれることとなった。
翁長村滞在中は、監視は付いたが集落内を出歩くことは自由で、ゆるやかな軟禁状態だったようである。社交性に富み好奇心旺盛な万次郎は、高安家から度々外出しては集落の人々と交流し、六月ウマチーには、ンマイー(馬場)で綱引きにも参加している。また、言語能力に長けた万次郎は、地元の人々とのこうした交流を通じ半年間の滞在で沖縄方言も理解したという。薩摩に送られるため琉球を離れるとき、世話になった高安家の娘らに万次郎は方言で別れを告げたというエピソードも残されている。
その後の万次郎は、咸臨丸で太平洋を横断し、日米修好条約調印使節団の通訳官として勝海舟や福沢諭吉とともに訪米するなど、幕末から明治にかけ開国に向かう動乱の時代に、米国での経験から得た貴重な知識や技術、西洋事情や文化を伝えるなど日米の橋渡し役として多方面で活躍した。
琉球滞在中に万次郎を温かくもてなした高安家と中浜万次郎家とはその後も代々交流が続き、1994年(平成6)3月には、ジョン万次郎がとりもつ縁で豊見城市と万次郎の出身地・土佐清水市との間で姉妹都市盟約が締結された。
英訳文
John Manjiro (Manjiro Nakahama) was born in 1827, in Nakanohama Village, Tosa Clan (today’s Tosa-Shimizu City, Kochi Prefecture), as a son of a poor fisherman. In 1841, at age 14, Manjiro was shipwrecked while fishing at sea, and landed at an uninhabited island where he was rescued by an American whaling ship and brought to Fairhaven, Massachusetts, USA.
After arriving in the United States, Manjiro was recognized for his intelligence by Captain Whitfield, his rescuer, and went on to study English as well as navigation, shipbuilding and surveying skills. He served as the First Mate on a whaling ship and traveled all over the world. After ten years of living abroad, a strong yearning for home led Manjiro to decide to return to Japan. Given the nation’s closed-door policy, however, this was a life-risking decision, albeit shipwreck being the cause of his departure from Japan.
In January 1851 (by the lunar calendar), Manjiro landed on the coast of Odo, Mabuni-magiri (today’s Odo, Itoman City), in the Kingdom of the Ryukyus. Decision was made to detain him in the Takayasu household (house name Tokujo) in Onaga Village, Tomigusuku-magiri (today’s Onaga, Tomigusuku City).
The confinement in Onaga Village was lenient. Manjiro was allowed to walk about the community freely. Social and curious, Manjiro frequently left the Takayasu household and interacted with the local people. He participated in a tug-of-war here in the nmaii (horse-riding ground) during the Rokugatsu Umachi, an annual harvest festival. Highly competent in linguistic ability, Manjiro is said to have acquired a good understanding of the Okinawan dialect during his six-month stay through interactions with the local people.
In the subsequent years of turbulence between the end of Edo and the early Meiji periods as Japan struggled to transition to an open nation, Manjiro actively served as a bridge between Japan and the United States, conveying the valuable knowledge and technology he acquired in the United States including the culture and the state of affairs of the western nations.
In March 1994, John Manjiro brought together Tomigusuku City and his hometown Tosa-Shimizu City in a sister city agreement.
観光名所 | 翁長 ジョン万次郎記念碑(おなが じょんまんじろうきねんひ) 沖縄ジョン万次郎(じょんまんじろう) |
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住所 | 〒901-0223 翁長 豊見城市 公民館施設内 |
電話番号 | 098-856-3671 |
営業時間 | 見学自由 |
設備 | あり(公民館内) |
駐車場 | あり |