大度浜海岸はジョン万次郎が沖縄に上陸した場所とあります。
大度浜海岸はジョン万ビーチとも呼び、本島最南端喜屋武岬の東側に位置しています。
ジョン万ビーチは、珊瑚やウミガメ、野鳥、希少動物が生息する豊かな自然環境があります。
また、家族での海水浴、シュノーケルスポット、自然観察などのが出来る綺麗なビーチです。
日本で唯一の戦跡国定公園として指定された場所でもあります。
ジョン万ビーチには、自然公園施設として大度園地が整備されていて、駐車場は広く約30台は止めれるスペースがあります。
園地内には、広場、休憩所、公衆トイレ、歩道などが整備されており、全て無料で利用することができます。
駐車場からビーチの反対側へ進むと、ジョン万次郎の石像が新しく建てられています。
ジョン万次郎の記念碑の台座には、沖縄にたどり着くまでの万次郎の6枚のイラストとストーリが細かく書かれていました。
波乱万丈の生涯と不屈のジョン万次郎のスピリットを知ることができます。
海側に出ると石碑が二個建てられています。
完全に潮が引いたら石碑まで行けるのですが、今回は遠くからの撮影にしました。
私たちがついた時には、漁師さんが網を持って魚を捕まえて、その場で魚を裁いていました。
この魚は天ぷらにして、ビールと食べたら美味いと夕食の話をしてました。
あと、ここは波に癖があり泳げる場所ではないと漁師さんからも聞きました。
確かに撮影の為、濡れないよう岩の上に居ましたがいきなり大きな波が押し寄せた時にはビックリしました!
ここは、釣りや漁にはいい感じで魚が捕れるようです。
翁長 ジョン万次郎記念碑
翁長 ジョン万次郎記念碑がある翁長共同利用施設です。
ジョン万次郎はハワイに留学後、沖縄に立ち寄っていてその記念碑が残っている場所です。
翁長共同利用施設の建物のすぐ裏手には、ジョン万次郎が滞在した高安家(たかやすけ)があります。
ジョン万次郎のストーリ案内板
Story1 万次郎、足摺岬沖で嵐に遭い漂流 太平洋の孤島で捕鯨船に救助される
万次郎は、中ノ浜(高知県土佐清水市)で生まれました。1841年、漁師になった14歳の万次郎は、宇佐浦からはえ縄漁にでました。この船には、船頭の筆之丞(後に伝蔵と改名)、重助、五右衛門の3兄弟と、寅右衛門、そして万次郎の5人が乗り込みました。ところが、漁に出て3日後に足摺岬沖で嵐に遭い、漂流しました。その後、太平洋の孤島・鳥島に漂着しました。そこで過酷な無人島生活を送り、143日後、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって救助されました。
ジョン・ハウランド号のウイリアム・H・ホイットフィールド船長は、5人を安全なハワイへと連れて行きました。旺盛な好奇心と前向きな行動力で船長に認められた万次郎は、4人の仲間をハワイに残し、1人アメリカへ渡る決心をしました。また、とのころに、「ジョン・マン」という愛称が付けられたと言われています。
Story2 万次郎、アメリカ本土に上陸 日本人留学生第1号誕生
1843年、万次郎が救出されてから2年後、船はアメリカ最大の捕鯨基地、マサチューセッツ州ニューベットフォードに帰港しました。万次郎は、日本人として始めてアメリカ本土に上陸しました。
万次郎の訪れたアメリカには、西部開拓の時代でした。ホイットフィールド船長は、ジョン・マンを我が子のように愛し、ふるさとのフェアヘーブンに連れ帰り、英語、数学、測量、航海術などの教育を受けさせました。ここに、日本人留学生第1号が誕生しました。
学校を卒業した万次郎は、捕鯨船フランクリン号に乗って7つの海を航海し、副船長にまでなりました。航海を経てニューベットフォードに帰港した万次郎は、カリフォルニアで起こったゴールドラッシュのことを知りました。
1850年、万次郎は、日本へ帰国するための資金を得ようとサクラメントの金由に向かい、600ドルを稼ぐと、仲間のいるハワイへと向かいました。
Story3 日本帰国への第一歩 いざ琉球・小渡浜に上陸
ハワイに到着した万次郎は、伝蔵、五右衛門らに帰国の決意を伝えました。また、「琉球の地に小船で渡れば便利なり」と考え、捕鯨ボートを購入し、アドベンチャラー号と名付けました。そして、上海へ向かうと商船サラボイド号へ乗船しました。
1851年2月2日、北風が吹きみぞれが降る悪天候の中、万次郎たちは、糸満市喜屋武岬の沖合いでアドベンチャラー号を降ろし、陸地を目指しました。深夜、海岸に着くと千潮だったため浜には行けず、仕方なく岩礁にいかりを下ろし、朝まで一眠りしました。朝になると、近くにいた釣り人の指示に従い、万次郎、伝蔵、五右衛門の3名は、小渡浜(古港口:フルンナトゥグチ)に上陸することができました。
Story4 万次郎、摩文仁間切番所で取り調べを受ける 荷物には本や地図、ピストルも
上陸した小渡浜で万次郎、伝蔵、五右衛門の3名は、浜に集まってきた小渡の村人たちから、温かいふかしイモをごちそうされました。万次郎たちは、親切な村人たちのおもてなしに感謝の気持ちで胸がいっぱいになっといいます。また、万次郎たちは、持ってきた牛肉やコーヒーを火に掛け、その場で食して見せました。
万次郎たちの荷物はすべて、摩文仁間切番所(米須集落内)の役人によって没収され、番所に運ばれました。荷物には、航海術書、数学書、ジョージ・ワシントン伝記、地図、八分儀、コンパス、ピストルなどがありました。取り調べをした役人たちにとっては、見たことのない品物ばかりでした。
また、役人からご飯とお箸を渡され、3人とも上手に使いこなしたことから、日本人であることが認められました。
Story5 万次郎、宿道を歩き翁長村の高安家へ「いちゃりばちょーでー」精神に触れる
万次郎たちは、取り調べ後に那覇へ護送されることになっていました。摩文仁間切から真壁、高嶺、兼城、豊見城間切の宿道を歩き向かいましたが、那覇でイギリス人宣教師ベッテルハイムに会うことを心配した薩摩藩(さつまはん)と琉球王府の役人は、「豊見城間切りに戻せ」との伝令を出し、豊見城間切翁長村へ戻り、親雲上(ベーチン)の高安家(屋号:徳門)で幽閉されました。
万次郎たちは、半年間に及ぶ捕らわれの身ではありましたが、村の綱引きや毛あしびーに参加するなど、村人たちと自由に交流することができました。また、かつて琉球の進貢船が難破した際、土佐藩(とさはん)の人たちへの恩返しとして、万次郎たちへの手厚い保護のほか、豚、鳥、魚、泡盛、衣服などを贈りました。
万次郎たちは、多くの人たちの「いちゃりばちょーでー」精神に触れることができました。
Story6 万次郎、封建時代の日本に民主主義を伝える 国際人として活躍、そして開国へ
幽閉(ゆうへい)されていた万次郎たちは、琉球王府の役人により取り調べを受けました。その際、通事牧志朝忠は、特にジョージ・ワシントン伝記に興味を持ちました。伝記には、アメリカの民主主義会社の制度や人権尊重について書かれていました。そのようなことから、万次郎が封建会社の日本に持ち帰りたかったのは、アメリカでの体験した民主主義の思想だったとも考えられています。
その後、万次郎は11年ぶりにふるさとの土佐に帰りました。ペリー提督が黒船を率いて現れた際、幕府は万次郎を直参として江戸に呼び寄せました。万次郎は、開国への熱い思いを込めて、老中らの前でアメリカの事情について話しました。
その後の万次郎は、翻訳、測量、捕鯨などを主な仕事としていました。明治新政府になっても、普仏戦争の視察として海外主張を命ぜられたほか、東京大学の前身「開成学校」の英語教授に就任するなど、国際人として活躍しました。
観光名所 | ジョン万ビーチ(じょんまんびーち) 大度浜海岸(だいどはまかいがん) ジョン万次郎(じょんまんじろう) |
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住所 | 〒901-0334 沖縄県糸満市大度243 |
電話番号 | 098-840-8111 |
営業時間 | 見学自由 |
設備 | トイレ有り |
駐車場 | あり(約30台) |