慶座の慶座井戸(ギーザ・ギーザガー)の案内板
慶座井戸は、八重瀬町字安里(旧具志頭村)に位置する古井戸です。
文久年間(1861~1863年)、首里王府の農村拖策に基づき具志頭間切「現在でいう行政区(ぎょうせいく)」でも慶座原を開拓し、新村落の建設を図りました。
しかし、慶座原は琉球石灰丘陵部台地上にあることから、水の便が悪く、飲料水や生活用水の確保が開拓の問題でした。
近くにある慶座バンタには、海に面した断崖の中腹から吹き出す滝があり、豊富な水量で海に流れ落ちていたことから、この水脈を台地上で掘り当て、井戸として利用するために大規模(だいきぼ)な慶座井建設工事を行いました。
工事は首里王府の監督下で行われ、各村の16歳以上60歳までの男性が工事の労役に従事しましたが、結局水脈をつきとめることはできず、工事はほぼ失敗に終わりました。
慶座井は、半円形状に垂直に堀り下げられ、三段構造(さんだんこうぞう)になっており、内側を「あいかた積み」の技法を使って築造(ちくぞう)しています。
規模・形状は、上部で東西の長さ約35メートル、南北の長さ約15メートル、下部の直径は約7.5メートル、深さ約10メートルの円錐形(えんすいけい)を成しています。
–八重瀬教育委員会–
井戸付近の地形と地質
慶座の慶座井戸(ギーザガー)は摩文仁(まぶに)の丘にある平和記念公園から北東方向へ、約1.5km離れた位置で比高約40mの段丘崖近くに設けられている。
安波井戸(あふぁがー)の南方で、北東-南西方向へ延びる断層崖の南側は、南方へ傾斜する標高40〜80mの海岸段丘面で、泥岩~砂岩層の新里層を糸数石灰岩層が覆っている。
海岸に面する段丘崖に沿う糸数石灰岩層の層厚は8m前後で、新里層との不整合面からは、地下水が音を立てて湧出していた。
2018年現在は枯れ、慶座井戸(ギーザガー)の湧き水は少しも残っていない。
慶座井戸(ぎーざがー)の形態
井戸(がー)は地表から水が流れ込まないよう、高さ約1mの土塁で取り囲まれ、平面形は北東-南西方向に細長い楕円形である。
土塁の長径は約15m、短径は最大約10m、その中に、三段の石垣に囲まれた、平面形がヘラ状をした降り井戸(がー)である。
石垣はすべて、石灰岩を加工した切石を、不整形な石を巧みに組み合わせた合方積みで築かれている。
握りの部分に当たる延長約30!の階段は、幅約1m、27段である。
階段を降りた先は台形に似た平坦地になっており、縦約3.3m、階段に続く底辺の幅は約2mである。
地表面から底部までの深さは約8!である。
井戸底の位置が、段丘崖にある地下水の湧出地点とほぼ同じ標高であることから、井戸を掘るに先立って、段丘崖で地表面から地下水湧出地点までの比高を測り、その結果を考慮して井戸を設けたと考えられる。
さらに、底部の平坦地の右側で、床面の下には、一辺が約1m、深さ約2mの石室が設けられており、底は軟らかい泥で埋まっている。
地下水の水位が下がったときは、石室に溜まっている水を汲んだと推定される。
慶座井(ギーザガー)の詳細
安政年間(1854〜1859)、具志頭間切では、首里王府の農村思索に基づき、広大で未開の慶座原を開拓して、そこに、新しい村の建設を図った。
ところで、慶座原は、琉球石灰岩丘陵部台地上に位置し、水利の便はきわめて悪く、飲料水・生活用水の確保が、開拓の先決問題であった。
ところが、近くの慶座バンダには、海に面した断崖の中腹から湧き出て、海に流れ落ちる水量きわめて豊富な滝(銀河という)その水脈を台地上で掘り当てるために、大規模なさく井工事によって落成した積井(チンガー)がこの慶井座である。それは、今よりおよそ135年前である。
慶井座は、尚家の御庭松山御殿(俗に桃原農園と言う)にある、佐司笠樋川の設計を模して成された。
規模・型状は、上部で東西の長さ約15!、南北の長さ約15!、下部の直径約7.5m、深さ約9.5mの円錐形状を成している。
築造の技法は、佐司笠樋川と同様になっており、石積みは三段に積まれている。
下部の一段目から二段目のテラスは狭く、二段目から三段目にかけてのテラスはかなり広い。三段目の上場の部分から周囲全部に土塁がめぐらされている。
–具志頭村教育委員会–
観光名所 | 慶座井戸(ギーザ・ギーザガー) |
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住所 | 〒901-0514 沖縄県島尻郡八重瀬町安里 |
営業時間 | 見学自由 |
駐車場 | あり |
入場料金 | 無料 |