島添大里城(しましいおおざとじょう)は、現在の沖縄県南部にあったグスクである。
別名を大里城といいます。
2005年まで存した自治体の大里村(現南城市)の村名は、このグスクの名に因む。
現在は廃墟となっているが、2012年1月に国の史跡に指定されています。
南城市大里の西原集落北側丘陵に位置する城(グスク)です。
その大きさは沖縄のグスクの中でも 5本の指に入ると言われたグスクですが、様々な破壊を受け、琉球の歴史にその名を刻んだグスクも今 は見る術もなく荒れ果てています。
南山の島尻大里グスクの城主「島尻世の主」に対し、東4間切り大里・佐敷・知念・玉城の4間切りを支配し、下の世の主を名乗った島添大里城(しましいおおざとじょう)の城主「汪英柴」は中国と進貢貿易を行うほど威勢をふるっていたと見られています。
そして三山統一の過程で尚巴志が最初に攻略した城(グスク)がこの大里グスクでその時の城主が「汪英柴」だったのかもはっきりとせず謎の多いと言われる南山の謎の1つを秘めいています。
島添大里城(しましいおおざとじょう)の歴史
島尻地域の東半分を支配下においた島添大里按司の居城であったが、佐敷グスクにあった尚巴志によって1402年に落城し、以後は第一尚氏の勢力圏に入った。
尚氏時代は離宮として少なくとも15世紀中ごろまで使用されていた。
首里城と並ぶ壮麗な宮殿であったという。
1683年には清の冊封使が廃城した大里城を訪れている。
南山王国国王の居城[5]とされるグスクの一つ。
他に南山城(島尻大里城)説があり見解が分かれている。
沖縄戦では城内に陣地が置かれて建築資材に城壁が転用され、米軍の攻撃も相まって大きな被害を受けた。
戦後も復興資材に使われた結果、大半の遺跡は消失した。
1961年に米軍の資材供与を受け公園事業として展望台やコンクリート道が整備され、その後私設のグスク公園(のち営業終了して大里村の公園になる)が建設され、島尻地域唯一のレクリエーション施設として賑わったが、城跡は一部改変された。
平成2年度から発掘調査が始まり、戦後の公園事業の構造物を撤去しながら整備が進んだ。
2012年1月には国の指定史跡となった。
名所 | 島添大里城(しましいおおざとじょう) 大里城(おおざとぐすく) |
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住所 | 〒901-1202 沖縄県南城市大里 |
電話番号 | 098-946-8990 |
駐車場 | あり |