首里金城町石畳道(しゅりきんじょうちょういしだたみみち)

首里金城町石畳道(しゅりきんじょうちょういしだたみみち)

首里金城町石畳道(しゅりきんじょうちょういしだたみみち)

首里金城町石畳道案内板

沖縄県指定 史跡・名勝 首里金城町石畳道
この石畳道は、球首里城守礼門東南わきにあった石門から識名、国場、真玉橋を経て南部へいたる重要な道の一部であった。
首里の主要な道が石畳道に改造された16世紀のはじめ、1522年(尚真王46)ごろにこの石畳道は造られたと推定されている。
全長約300m、道幅約4m。敷石は大小の琉球石灰岩を組み合わせた「乱れ敷き」で、石の表面には適度な加工が施されていたが永い年月で摩耗している。急な勾配のところでは石の表面に滑り止めの横線の刻みを入れたり、階段をつけたりしている。沿道の石垣は、琉球石灰岩を用い、主に沖縄独特の石積みの手法である「あいかた積み」で積まれており、石畳と調和して城下町の風情を残している。
沖縄県教育委員会 那覇市教育委員会

観光名所 首里金城町石畳道
(しゅりきんじょうちょういしだたみみち)
住所 〒903-0815
沖縄県那覇市首里金城町3丁目
沖縄県那覇市首里金城町1丁目
駐車場 近場にあり(有料)

首里金城村屋(かなぐしくむらやー)

那覇市首里金城村屋(かなぐしくむらやー)は、首里金城町石畳の一息の休憩所、地域住民の憩いの場として提供されている。
現在の金城村屋がある一帯は、樋川毛と呼ばれる広場になっていて、国王一行が識名園へ向かう際、村人がお茶でもてなした休憩地でした。
金城村屋は現在でも金城町の公民館として、町内の季節祭事や町民の活動に利用されており、また金城町石畳道を訪れる多くの観光客の休憩所として広く活用されています。

金城大樋川(キンジョウウフヒージャー)

金城大樋川は金城村の共同井戸で、急ながけの下から2つのかけ樋で地下水を導き出しています。その前には、約10m2ほど石積みを施し、半月製の貯水池を設けています。樋川の周囲の3方は、土留めの石積みがなされ、特に東側は4段にわけてがっちり積まれています。
東側の集会所のところは、かつてのフィージャーモーと呼ばれた広場で、坂道を上下する人馬が樋川の水で喉を潤し、一息入れた場所でした。また、広場から石畳道をはさんだ東側は、薩摩に学び沖縄で最初に和紙をすいた大見武筑登之親雲上(おおみたけ ちくどぅんぺーちん)の屋敷跡で、17世紀の末ごろこの樋川の水で和紙がつくられたようです。
「市指定文化財」

仲之川(ナーカヌカー)

仲之川は東に金城大樋川、西に寒川川樋川があって、その中間にあるのでこの名がつけられました。
この川は水質、水量ともにすぐれ、ひでりにも水量がかわらず、雨天にも濁らず、付近住民の用水だけでなく、王府時代はひでりなどのとき首里城内の御用水になっていました。
1863年6月の大雨のさいにこわれたので。宮城筑登之親雲上(ちくどぅんぺーちん)、新垣筑登之親雲上(ちくどぅんぺーちん)ほか百姓45人が4万貫文を拠出し王府に願いでて修理しました。このことで、これらの百姓にはそれぞれ位を賜りました。
この由来を刻んだ入口の石碑は、沖縄戦で破壊されましたが、その三分の二が本市教育委員会に保管されています。

寒水川樋川(スンガーヒージャー)案内版

寒水川樋川は、18世紀初頭につくられた「首里古地図(しゅりこちず)」にも印(しる)されている村ガー(共同井戸(きょうどういど))の1つで、今のように上水道が普及(ふきゅう)するまで、付近に暮らす住民の大切な生活用水となっていました。
水は、樋口(ひぐち)の奥にある水脈(すいみゃく)から、琉球石灰岩(りゅうきゅうせっかいがん)でつくられた樋(とい)で半月型(はんげつがた)の水溜(みずため)に導(みちび)かれています。井戸の背後は、土砂(どしゃ)が崩(くず)れないように、3段の石垣(いしがき)を「あいがた積み」にしてあります。水溜の縁石(ふちいし)は大きく、石敷(いしじ)きと一体になっています。これまでに多くの人々が利用したため、縁石の角はすり減って、その表面が丸みを帯びています。
水溜の水は、飲料水(いんりょうすい)に用(もち)い、石敷きでは洗濯などが行われ、なおもあふれる水は、下手(しもと)の水溜に集められ、農業用水(のうぎょうようすい)などどして活用されました。むかしから、人々はたびたび水不足に悩まされたため、大切に水を扱っていたことがわかります。

仲之川の石碑(ナーカヌカーノセキヒ)

仲之川の入り口に建てられた石碑で、沖縄戦で上の部分が壊され、現在は台座と石碑の一部が残っています。
石碑には、水は岩根からコンコンと湧き出し、雨が降っても濁らず、日照りにも枯れず、他村より水汲みにきたり、首里城の御用水にもなる重宝な井戸であったことが記されていたそうです。
また、1863年の大雨で西側の石垣が崩れた際、村人たち47人が協力し合って大修理を行い、丈夫な井戸に戻したことから、国王から褒美をもらったことなどが刻まれています。
この石碑の残りの部分は、那覇市(教育委員会)に保管されています。

仲之川は東に金城大案内板

那覇市指定文化財 1977年(昭和52年)4月21日 指定
仲之川は東に金城大樋川(カネグスクウフヒージャー)、西に寒水川樋川(スンガーヒージャー)があって、その中間にあるのでこの名がつけられました。
この川は水質、水量ともにすぐれ、ひでりにも水量がかわらず、雨天にも濁らず、付近住民の用水だけでなく、王府時代はひでりなどのとき、首里城内の御用水になっていました。
1863年6月の大雨のさいにこわれたので、宮城筑登之親雲上(ミヤギチクドゥンペーチン)、新垣筑登之親雲上(アラカキチクドゥンペーチン)ほか百姓45人が四万貫文の拠出し、王府に願いでて修理しました。このことで、これらの百姓にはそれぞれ位を賜りました。
この由来を刻んだ入口の石碑は、沖縄戦で破壊されましたが、その三分の二が本市教育委員会に保管されています。

首里金城の大アカギ(シュリキンジョウチョウノオオアカギ)

首里金城の大アカギ案内板

内金城嶽境内には推定200年以上と思われるアカギの大木が6本生育しています(学名:Bischofia javanica Blume)。
樹高は約20mで、樹幹にはホウビカンジュ・ハブカズラ・シマオオタニワタリ・クワズイモ・ハマイヌビワなどが着生しています。
あかぎは琉球列島・熱帯アジア・ポリネシア・オーストラリアなどに分布するドウダイグサ科の樹木です。沖縄県内では普通に見られる樹木ですが、このような大木群が人里に見られるのは、内金城嶽境内だけです。
第二次世界大戦前までは首里城内及び場外周辺にもこのようなアカギの大木が生育していましたが、戦争でほとんど消失してしまいました。
300年間のいつの頃からか根元に自然の祠ができ、この場所に旧暦6月15日に神が降りられ、願い事を聞き上げられていると、古老の言い伝えがあります。どうぞこれだけはという願い事、年一つだけ話されてみてください。

内金城御嶽(ウチカナグスクウタキ)

古い記録にも登場するこの御嶽の起源は、12世紀以前にまでさかのぼると言われています。
歴史書「琉球国由来記」によると、真壁大阿母志良礼(マカンノオオアモシラレ)が管轄していたことが記されています。
神名は東側の大嶽が「カネイ御イベ」または「モジヨルキヨノ大神」、西側の小嶽が「イベヅカサ御セジ」です。
石垣の正面には直線の楯石(まぐさ)をかけた石門があり、石囲いの中にアカギの大木があります。
また、その下には3個の石がたてられており、沖縄独特の信仰形式を備えた御嶽といえます。
小嶽には、年中行事のひとつで旧暦12月8日に行なわれる「鬼餅節(ムーチー)」の由来が伝わっています。
市指定文化財

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